参考動画:https://www.youtube.com/watch?v=OFk8HvCr_pY
物語は2006年に遡る。当時、オンラインマーケティングの世界は、現在とは大きく異なっていた。多くの企業が広告枠を買い、顧客の注意を「割り込み型」で引こうとするアウトバウンドマーケティングが主流だった。人々はまだ、無料で大量のトラフィックを獲得できるという考えに馴染みが薄かった時代である。
そんな中、マサチューセッツ工科大学(MIT)の大学院で出会ったダーメッシュ・シャア(Dharmesh Shah)氏とブライアン・ハリガン(Brian Halligan)氏は、この状況に疑問を抱く。彼らは、従来の押し付けがましいマーケティング手法は非効率的であり、消費者の購買行動は変化していると喝破。そこで提唱したのが「インバウンドマーケティング」という新しい概念だった。
彼らは共著「Inbound Marketing: Get Found Using Google, Social Media, and Blogs」(邦題:「インバウンドマーケティング」)の中で、企業が顧客に見つけてもらい、惹きつけ、信頼関係を築くことの重要性を説いた。広告で顧客の邪魔をするのではなく、価値あるコンテンツを提供することで、顧客自らが企業を発見し、関心を持つように仕向けるべきだと主張したのだ。
このインバウンドマーケティングを実現するための最も強力な武器こそがSEOであった。「最高のマーケティングソフトウェアは何か?」と検索している人々がいるならば、彼らが自社のウェブサイトにたどり着くようにすれば良い。このシンプルな発想が、HubSpotの成長戦略の原点となった。彼らは、インバウンドマーケティングが単にトラフィックを増やすだけでなく、数十億ドル規模の成長戦略の基盤になり得ると確信していた。
インバウンドマーケティングの思想は徐々に浸透しつつあったが、HubSpotの創業者たちはさらに大きな可能性を見据えていた。2015年から2016年頃にかけて、彼らはそのビジョンを本格的に試すべく、優秀なSEO専門家チームを結成し、オーガニック検索を主要な成長エンジンと位置づける大胆な戦略に打って出た。
その結果は、多くのマーケターの想像を絶するものだった。HubSpotのオーガニックトラフィックは、その後数年間にわたり、文字通り右肩上がりの急成長を遂げる。彼らのウェブサイトで最も訪問者数が多かったのは、当然ながら自社のドメインであるhubspot.comだったが、その内訳を見ると興味深い点が浮かび上がる。
例えば、「インタビュー後のフォローアップメールの書き方」や「Excelでグラフを作成する方法」といった、一見すると自社のセールス・マーケティングツールとは直接関係なさそうなトピックに関する記事が多数存在し、多くのトラフィックを集めていたのだ。これは、HubSpotが単にキーワードで上位表示されることだけを狙っていたのではなく、潜在顧客が抱える様々な課題や疑問に応えるコンテンツを幅広く提供することで、見込み客との接点を増やそうとしていたことを示している。
HubSpotのSEO戦略は、単にトラフィックを集めること自体が目的ではなかった。全てのページ、全ての記事が、検索トラフィックを実際のビジネス成長に繋げるための緻密な設計に基づいていた。彼らのSEO戦略は、マーケティングファネルから独立したものではなく、むしろファネル全体を駆動するエンジンそのものだったのだ。
この戦略の核心は、彼らの著書「インバウンドマーケティング」の第3部でも明確に述べられている。HubSpotが作成する全てのコンテンツは、「リードマグネット」を中心に構築されている。例えば、記事の見出しのすぐ下には「今すぐダウンロード:30種類のフォローアップメールテンプレート」といったCTA(Call to Action:行動喚起)が設置されている。ユーザーがこれをクリックすると、ランディングページ(offers.hubspot.com)に誘導され、無料のテンプレートをダウンロードするためにメールアドレスなどの情報を入力するよう求められる。Facebookのカバー画像テンプレートなど、彼らは文字通りマーケティング戦略やSEO戦略そのものをテンプレート化し、提供していた。
Ahrefsのデータによれば、HubSpotは1,000種類を超えるオファーを用意しており、ピーク時にはブログコンテンツだけで月間約1,000万ものオーガニックアクセスを獲得していたという。HubSpotのブログは、まさにリードジェネレーション(見込み客獲得)マシンとして機能していたのだ。
ブログコンテンツによるリードジェネレーションは大きな成功を収めたが、HubSpotの野心はそれに留まらなかった。彼らは、テキストベースのコンテンツマーケティングが主流だった当時、まだ多くの企業が本格的に取り組んでいなかった新たな戦略に目を向ける。それは、著書の中でも触れられていた「テキストの代わりにコードでコンテンツを作成する」というアイデア、すなわち無料ツールの提供であった。
HubSpotは、「AIウェブサイトグレーダー」や「Eメール署名ジェネレーター」といった、マーケティング担当者や営業担当者、さらには一般のビジネスパーソンにとっても役立つ様々な無料ツールを開発し、提供し始めた。これらのツールを利用するためには、やはりユーザーは自身の情報を入力する必要があった。
これらの無料ツール群がもたらしたトラフィックは驚異的だった。2015年時点では、これらのツールへのオーガニックトラフィックはほぼ皆無だったが、数年後には、わずか10個のツールURLだけで、月間10万から16万ものオーガニックアクセスをコンスタントに集めるリードジェネレーションページへと成長した。
HubSpotは、自社製品であるマーケティングツール、セールスツール、ウェブサイトビルダー、サービスツールといった各製品カテゴリに対応するサブフォルダをウェブサイト内に設け、それぞれのターゲット顧客が関心を持つであろうコンテンツやツールを戦略的に配置した。これにより、各製品への関心が高い潜在顧客を効率的に惹きつけ、リードマグネットを通じて情報を獲得し、最終的にはメールマーケティングやリターゲティング広告(そしておそらく自社ツール)を駆使して顧客化へと繋げるという、一貫したインバウンドマーケティング戦略をSEOを通じて展開したのである。
HubSpotは、2014年に提唱したインバウンドマーケティングの教科書通りの戦略を実行し、その有効性を証明するだけでなく、SEOがビジネスにもたらす可能性を再定義していた。しかし、彼らはその哲学をさらに極限まで推し進めることになる。単にコンテンツや軽量なツールを無料で提供するだけでなく、自社のビジネス全体をリスクに晒しかねないほど大きな「何か」を無料で提供するという、大胆な一手に打って出たのだ。
それが、2016年頃にリリースされた無料のCRM(顧客関係管理)システムだった。当時、高機能なCRMの多くは有料であり、無料で提供されるものは機能が限定的であることが一般的だった。コンテンツが無料で提供されることは当たり前になりつつあったが、本格的なソフトウェア、それもビジネスの中核を担うCRMのようなツールを無料で提供するというHubSpotの決断は、業界に大きな衝撃を与えた。
この動きは、短期的な収益を犠牲にしてでも、長期的なエコシステムを構築するという、非常に計算された戦略的な一手だったと推測される。HubSpotのCRMは、彼らが提供するあらゆるツールの中心に位置づけられ、他のツール群(マーケティングハブ、セールスハブ、サービスハブなど)とシームレスに連携するように設計されている。これは、Apple製品がカレンダーや連絡先を同期させることでユーザーを自社エコシステムに引き込む戦略にも似ている。
HubSpotの無料CRMは、高価なCRMを導入する余裕がなかった多くの中小企業やスタートアップにとって、まさに救世主のような存在となった。筆者自身も、当時その恩恵を受けた一人であり、リンクビルディングのためのアウトリーチ活動などに活用していたという。ユーザーは無料の価値あるツールを利用できる代わりに、HubSpotに自身の情報を提供し、コンタクトを取る許可を与える。これは、ユーザーにとっても有益な情報を得られるため、決して悪い取引ではない。HubSpotは、ユーザーの興味関心を理解し、彼らにとって最適な製品(それが無料CRMの利用継続であっても)を推奨することができる。そして、ユーザーがビジネスを成長させる過程で、より高度な有料機能や他のハブ製品へのアップセルを自然な形で提案できるのだ。
この無料CRM戦略は、単なる大盤振る舞いではなく、HubSpotのエコシステムへの巧妙な「トロイの木馬」として機能したと言えるだろう。
HubSpotの進化は、SEOや無料ツールの提供だけに留まらなかった。彼らはソフトウェア企業という枠組みを超え、さらに大きな存在へと変貌を遂げようとしていた。
約4年前、共同創業者のダーメッシュ・シャア氏はLinkedInにこう投稿した。「現代のメディア企業は、内部にソフトウェア企業を組み込んでいる。次世代のソフトウェア企業は、内部にメディア企業を組み込むだろう。」この言葉は、HubSpotが次に見据えていた壮大なビジョンを明確に示していた。
その言葉を具現化するように、HubSpotは「HubSpot Podcast Network」を立ち上げた。ビジネス、マーケティング、セールスに関心のある人々をターゲットとした質の高いポッドキャスト番組を多数配信し、文字通り人々の「耳」から情報を届け、エンゲージメントを深める戦略だ。
さらに大きな動きとして、人気ビジネスニュースレター「The Hustle」の買収が挙げられる。The Hustleの創業者サム・パー(Sam Parr)氏は、「我々の目標は、世界最大のビジネスコンテンツネットワークを構築することだ」と語り、HubSpotによる買収がその目標達成に向けた重要な一歩であることを示唆した。ダーメッシュ・シャア氏の言葉通り、HubSpotはメディア企業を買収することで、自らの発言を実行に移したのだ。
HubSpotはSEOという原点から大きく飛躍したが、その根底にある「コンテンツで注目を集め、リードを獲得し、顧客に転換する」というインバウンドマーケティングのプレイブックを放棄したわけではなかった。彼らは依然としてコンテンツを活用していたが、その戦場はもはやGoogleの検索結果だけではなかった。彼らは、ポッドキャストやニュースレターといった多様なメディアを通じて、巨大なメディア帝国を築き上げようとしていた。
例えば、人気ポッドキャスト「My First Million」では、エピソードの途中で必ずHubSpotの広告が読み上げられる。リスナーは特定の検索意図を持ってコンテンツにアクセスしているわけではないが、ホストのサム・パー氏やショーン・プリー(Shaan Puri)氏の会話そのものを楽しみにしている。そして、ここでもリードマグネット戦略は健在だ。例えば、「ビジネストレンドを見つけるためのプレイブック」といった特典を提供し、メールアドレスの入力を促す。こうして獲得したリードは、彼らのセールスツールに取り込まれ、ユーザーの行動に応じて最適化されたファネルへと導かれる。
HubSpotの成長物語は、単なるサクセスストーリーとして片付けるにはあまりにも多くの示唆に富んでいる。彼らの成功要因を分析すると、いくつかの普遍的な原則が見えてくる。
これらの原則は、HubSpotのような大企業だけでなく、あらゆる規模の企業にとって重要な指針となる。特に、広告予算が限られる中小企業にとっては、コンテンツとSEOを中心としたインバウンド戦略は、持続的な成長を実現するための強力な武器となり得る。
HubSpotの戦略は、そのまま模倣することが難しい部分もあるかもしれないが、そのエッセンスを抽出し、自社の状況に合わせて応用することは十分に可能である。
BtoB企業であれBtoC企業であれ、インバウンドマーケティングの基本的な考え方は共通している。重要なのは、自社の顧客を深く理解し、彼らにとって真に価値のあるものは何かを常に問い続ける姿勢である。
HubSpotが切り拓いてきたインバウンドマーケティングとSEOの世界は、今後どのように進化していくのだろうか。いくつかの重要なトレンドが予測される。
HubSpot自身も、これらのトレンドを先取りし、さらなる進化を遂げていくことが予想される。AIを活用した次世代のマーケティング・セールスプラットフォームの開発、より深い顧客インサイトに基づくパーソナライズ機能の強化、グローバルなメディアネットワークの拡大、そして教育コンテンツやコミュニティを通じたエコシステムのさらなる強化などが考えられる。彼らが次にどのような一手で業界を驚かせるのか、注目が集まる。
HubSpotの成功物語は、単なるSEO戦略やコンテンツマーケティングの巧みさを超えて、現代におけるビジネス成長の本質を我々に教えてくれる。それは、顧客を「邪魔する」のではなく「惹きつける」こと、短期的な利益追求ではなく長期的な信頼関係を構築すること、そして何よりも顧客にとって真に価値のあるものを提供し続けることの重要性である。
彼らが築き上げた380億ドルという企業価値は、広告費を大量に投下した結果ではなく、地道なコンテンツ作成、戦略的な無料ツールの提供、そして顧客中心のエコシステム構築という、時間と労力を要するインバウンドなアプローチの賜物だ。
デジタル化が加速し、情報が氾濫する現代において、企業が顧客の注意を引き、選ばれ続けるためには、HubSpotが示したように、まず「与える」ことから始める必要がある。価値ある情報、役立つツール、そして共感できるストーリーを提供することで、顧客との間に強固な絆を築き、持続的な成長を実現する。
HubSpotの軌跡は、全ての企業にとって、未来のマーケティングがどうあるべきか、そしてそのために今何をすべきかを示唆する、貴重な羅針盤となるだろう。彼らの挑戦と進化は、これからもマーケティング業界に新たな基準を提示し続けるに違いない。